- 寒い、ひもじい、もう死にたい?
- 2015年01月23日
昨年の暮れから例年よりずっと寒い日々が続いてきましたが、冬至からそろそろ1ヶ月経ち、太陽の日差しも毎日少しずつ強くなって来るのがわかります。
昔、ちびまる子ちゃんの漫画を読んでいて「寒い、ひもじい、もう死にたい。不幸はこの順番にやってくる」という場面が面白く描かれていたのを、この季節になると思いだします。
「室温20度設定!」と会社や学校で「しっかり守って下さい」と周知され、室内の温度計を見ながら細かく温度調整をする役目は私の仕事・・・という方もいらっしゃると思います。
それでも中世の江戸時代、そして戦前の日本の田舎の冬の暖房(だるまストーブや練炭、ひばち、ほりごたつ、囲炉裏、豆たんカイロ、湯たんぽ)に比べたら、随分と暖かく冬を過ごすことができるのが現代です。
昔は本当に冬は「じっと耐えて過ごす」長い時間であったのだと思います。
「夏」は若々しさや明るさ躍動感をイメージしますが、さて「冬」となると、ちびまる子ちゃんも言っていた様な感じのイメージがどこかにあります。
大正9年に島崎藤村は「三人の訪問者」という短編エッセイの中でこの「冬」から連想されるネガティブな感じを自身の3年間のフランス遊学時代のヨーロッパの冬の暗さや信濃の冬の長さを思い出しながら書いています。
でもこのエッセイは決して、人々がきちんと向かい合って見ようとしないそういった「ネガティブな事を連想する言葉」を暗くは描いてはいません。
むしろ「おとぎ話」や「童話」で描かれる「なんと、おおかみは赤ずきんちゃんのおばあさんを食べてしまいました!」の様に残酷なブラックな表現の部分もさらりと読めてしまう・・・そんな童話タッチな文筆で、ネガティブな冬のイメージを軽快なタッチで藤村の哲学的な洞察を持って執筆しています。
老婆に例えた「冬」。旧知の仲に例えた「貧」。最近見知った人に例えた「老」。未来の友に例えた「死」。
「冬」の季節はまた誰もが必ず迎える「齢を重ねて翁になる」「翁になってからの時間の長さ」の事を心の片隅でちらり、と思い起こさせてくれる時だと思います。
そしてそういった「時」を迎えた時、実はそれは「時を重ねた者だけが知る事ができる、芳醇で豊かな時代を迎える時」である事を藤村は描きたかったのかしらん?と思います。
今日の午後のお茶の時に暖かい場所でスマホ片手に青空文庫の「三人の訪問者」を読んでみる、のはいかがですか?
作:とざそし まき