馬籠宿の観光の際のお食事、軽食、お土産は馬籠館へお越しください。駐車場完備。

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馬籠と木曽馬
2015年06月08日
木曽、と聞くと木曽川や木曽馬を連想される方は多いと思います。 そして馬籠宿は「馬」の漢字がある木曽路唯一の宿場です。 「馬」が付いているのに何故木曽馬は馬籠にはいないの?と思う方もいらっしゃると思いますが、国の天然記念物に指定されている木曽馬の多くは木曽谷全域の個人農家や開田高原にある木曽馬の牧場でそのほとんどが飼育されています。   一時は「絶滅の危機」に至りながらも。奇跡的に復活した木曽馬は、全頭が天然記念物指定では無く、純血種に近い木曽馬と認定された限られた馬だけが天然記念物の木曽馬と指定されている様です。   さて、馬籠の名前の発祥ですが、台地地形の接頭部に馬を追い込み、その地形を利用して「牧場」があり、また交通の要所であった場所の事を「馬籠、馬込、馬篭」と呼んだ地名だという説。 確かに日本各地には沢山の「まごめ」という場所があり、調べてみると「野馬込=牧場」と解説されている場所もあります。 馬籠宿から恵那山を望むと開けた「霧が原」を望む事ができますが、7世紀ごろの古文書によると「神坂(付近の地名)に牧場があり馬が飼育されていた」とあります。 この古文書は初めて「木曽馬」が飼育されていた事を記した本と言われています。 「馬」が飼育されていた「台地地形の牧場」の側を「交通の要所の神坂峠」を通う東山道があり馬を常駐させる駅舎があった、ので「まごめ」と呼ばれる様になった、という説に軍配を上げて納得したくなります。   では、木曽馬の起源は?と調べてみると、何と北方系モンゴル馬のDNAとほぼ一致する様です。この北方系モンゴル馬のDNAを持つ馬のグループは北海道にもいます。 では、いつの時代に渡来してきたの?どのルートで木曽や馬籠周辺に来たの?が気になりますが、3世紀に書かれた魏志倭人伝には「日本に牛、馬はいない」と記されています。 しかし、魏志倭人伝は多分「西日本」の状況を記した本と考えると、古代の蛮族の国「東日本」に馬がいなかった、とは言い切れないな・・・古代日本の西日本と東日本の国境であった馬籠、神坂周辺であればこそ、真相は不明だな、と思います。   東北にある沢山の巨石文明の遺跡にも良く似た「石の文明の痕跡」が沢山ある恵那の笠置山や下呂周辺の金山巨石群等も馬籠からそれほど遠く無い距離だと考えると、もしかしたらずっと昔からいたのかな?と想像逞しくなってしまいます。   江戸時代に徳川幕府の命で新しい宿場町として現在の地に「馬籠宿」は切り開かれましたが、急峻な山の尾根の地形を巧みに利用した「要塞」の役目も担っていました。 こういった急峻な山の坂道では「馬」よりも「牛」の方が荷物の運搬に向いていた為、中山道の馬籠〜中世の塩の道、中馬街道の飯田にかけては主に「牛」が荷物の運搬に利用されていた事が文献や浮世絵に描かれています。 登りに強い牛でしたが、下りは苦手であった、と記されています。 それを巧みに操り、遠く尾張藩や信州の善光寺あたりまで、馬籠峠にあった「牛方の集落」の人々は旅人の荷物の運搬に従事し暮らしていた、と記されています。   馬籠館の駐車場や「そば処まごめや」でお食事をしながら店内から恵那山麓を眺めた時、そんな謎に満ちた木曽馬のルーツのミステリーも思い出して下さいね! P1050531 P1050380 P1050838

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